fm craic創業者の三峰 教代さん、佐々木 由珠さん、そして今回、事業継承を決め、新たに代表に就任される釘田和加子さんの対談インタビュー。前編では、三峰さんと佐々木さんのfm craic創業ストーリーをお届けします。
【佐々木さん(写真右):プロフィール】
草津市出身。仏教大学で仏教を専攻。僧籍を取得。大学卒業あとは、中国・天津に留学し、日本茶道と中国語を習得。その後、大阪にあるインド専門の旅行会社に就職。故郷・滋賀県に対する熱意が高まり退職。滋賀県へ帰郷。
【三峰さん(写真左):プロフィール】
湖南市出身。アメリカ・ボストン交換留学を経て、2005年イギリス・ニューカッスル大学大学院へ。通訳を学び、東京の外資系ソフトウェア会社に就職。シニアコンサルタントとして活躍。時を同じくして、佐々木さん同様、食や農業に関連する仕事に就きたいと退職。滋賀県へ帰郷。
―― 三峰さんと佐々木さんが出会われたのは、滋賀県の公共職業訓練校のアグリファーム科だとお伺いしました。
同じクラスの同期です。最後1ヵ月の研修で、同じグループになり、よくしゃべるようになりました。前職がサラリーマンだったこともあり、私は独立願望が強かったんです。
同期の何人かに話したときに「一緒にやりたい」と言ってくれたのが、佐々木さん。ビジョンも何もなく、ただただやってみよう、と。
当時の私は「農業、ちょっと興味ある」くらいのイメージ。三峰さんは、起業を明確に考えていて、プレゼンしてくれたんです。「一緒にやったら面白そう」と思い、直感で決めました。
謎の自信はありましたね。「なんか上手くいくんちゃう?」っていう(笑)。ほんならやってみる?みたいな。
かなり、軽いノリで。
―― その直感が、正しかったということですね。そもそも、なぜ農業を学ぼうと思われたんですか?
私の前職は、大阪のインド専門旅行会社の会社員です。ただ、終身雇用でもないし、旅行がちょっと儚いものに思えてきた時期でもあります。テロとか戦争とかが起きる可能性もあるので。
今の新型コロナウイルスも、まさに当時言っていたことですね。
そう!ほんまそう。インターネットが普及した今、個人が旅行の手配をすることも、珍しくありません。今後ずっと旅行会社で働く自分が想像できなくなった。旅行は好きだけど、自分のために行くものだと思い始めたのもこの頃。
30歳手前は、生き方や働き方にちょっと悶々する時期。結婚の予定もなく、これからどうしていくのかというときに出会ったのが農業でした。
―― 農業は、生きること、働くことに直結している。実家が農業を営まれていたわけでもないからこそ、面白そうとの憧れがあったと。
はい。それまで滋賀県を出て暮らしていたけれど、滋賀で農業が学べるなら戻ろうかなと。失業保険も貰えるので、最初は軽い気持ちで。
当時、農業ってちょっと流行っていたんですよ。「半農半X」が言われ出した時代。東京の人が週末、田舎で農業を始めるとか。
私も東京の外資系金融ソフトウェア会社に就職し、シニアコンサルタントとして働いていましたが、一からのモノづくりへの憧れもあって、農業の道へ。
ただ、卒業後は農業のハードルの高さに直面しました。農地法の存在も、それまで知らなかったので。でも、農業をするのに、そんなにハードルが高くていいのかとの疑問もずっとあって。
これだけ農業の担い手がいないと言いながら、実際担おうとしたら、止めるやんって。「若者の未来を!」とか言いながら、嘆いて。怒っていましたね。でも、いろいろな人が力になってくれて、最終的に認めてもらえました。
――最初は、湖南市の伝統野菜「下田なす」の栽培から始めたものの、なすは、安定供給が難しい作物だったそうですね。そしてお2人が師匠と慕う農家さんから、「弥平とうがらし」を教えてもらったと。
1年目は、ビギナーズラックで、下田なすがたくさん収穫できたんです。今振り返れば、たいした量ではないんですが。2人であちこち売り歩いて。でも、冬になったら もう売るものがなくて。あれ?って。(笑)
そのときに唯一、畑の端っこのほうにあったのが、弥平とうがらしです。もともと奥の方に植えていたし、最初はずっと無視していたんですよ(笑)
でも、なすが全部なくなったとき、パッと見たら、オレンジ色が輝いていて。
これまで見たことのないオレンジ色。なんじゃこりゃ、って。で、ちょっとかじってみたら…
辛い!でもなんか甘いし、美味しい。不思議やなって。あ、弥平ってこれなんや、みたいな、そのとき初めて認識しましたね。
―― 次になすを収穫するまで、半年間の期間がある。植えていた弥平とうがらしは、約10本ですよね。収量の少なさをカバーするために、一味以外の商品をつくろうと。
ちょうどタイ料理にハマっていたので、スイートチリをつくりたいなと。実は、かさ増しから生まれたヒット商品です。
家でつくってみたら美味しくできたので、販売許可をとり、販売条件をクリアできる方法を考えました。
もともと、夏にめっちゃ農業して冬は休みたいというのは、絶対譲れなかったところ。加工しないと、自分たちが目指す農業は完結しません。少しずつ加工にシフトチェンジしていきました。
――2011年、湖南市には、道の駅構想があったそうですね。その開業前にファーマーズマーケットをつくる話があり、弥平とうがらしをお土産屋の目玉にするため、大いに関わっておられたと。
三雲ドライブイン内の「こなんマルシェ」です。店づくりから関わり、テレビや雑誌など、さまざまなメディアに取り上げられました。商品開発も一気に進めましたね。法人化したのもこの頃です。
そうそう。あと、商品開発には、個性をめっちゃ大切にしていました。他の人と一緒のものをつくったら、絶対に埋もれる。だから、売れても売れなくても、みんながつくっていないものにしようと。
―― 弥平とうがらしのイベントやスタンプラリーなど、積極的にPRを続けてこられた印象ですが、2014年、15年と、土壌の病気が蔓延し、壊滅的な被害を受けたと。
ちょうど栽培本数を500本から1000本に増やした時期です。翌年もうまくいかず、農業の厳しさに直面しました。「スイートチリソース」の製造量を増やすことで乗り切り、リスク分散で委託を増やす流れに舵を切りました。
それまでは「全部自分たちでやったほうが儲かるやん」との考えで続けてきましたが、これはリスクが大きすぎるなと。
あと、やっぱり弥平とうがらしは、地域のもの。みんなのものだと思ったほうがいいやんな、というところに落ち着きました。
地域の農家さん、いちご農家に新規就農した人、京都のとうがらし屋さんに納品するため、長年とうがらしを栽培されていた人など、いろいろな人とつながって、助けてもらいました。
その後、個人的なことですが、私の親が病気がちになったこともあり、事業への関わり方について悩んでいました。佐々木さんに任せて「ちょっと離れます」というかたちで、一旦離れさせてもらって。
ずっとみていたし、状況も知っていました。どうしようかなと思ったけれど、できる範囲でやってみようかなと。辞めるのはいつでもできますからね。2016年ごろからは、完全に1人で運営していましたね。
それから、今後も継続するなら、私が戻ろうが戻るまいが、もう1人は必要やなと。2017年くらいから、2人で運営する以外のかたちを考え始めました。
それぞれの人生もあるし、「fm craic」に引っ張られすぎるのはやっぱり違う。三峰さんが主体的に関われない状況になったことも、もちろん分かる。とりあえず今できることをやろうと。
あとは、小規模事業ながら、お客さんがいてくれはるから。辞めどきがわからなかったというのもあります。
廃業するための整理をするくらいなら、つくって売ったほうがいいな、という考え。
そうそう。何かもう1個ぐらい理由がないと、辞めるには足りない。とりあえず、最小限ながら継続していましたね。同時に、お客さんがいてくれはること、待ってくれてはる人がいることに、弥平とうがらしの可能性やポテンシャルを感じました。
必死に取り組んでやっとできたものを、私たちの事情だけで「もうできません」とは言えないなと。関わってくれた人も、ストーリーを見て、共感して、使ったり、お料理を作ってくれたりしたわけです。
その期待には応えたい。どういうかたちかは、まだ分からないけれど、弥平とうがらし自体は、継続したいなとの思いはずっとありましたね。
→【後編】2019年夏。出会いからfm craicの事業継承、そして未来へ。
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